聖教新聞


2019年11月6日(水)の聖教

◆わが友に贈る

「継続」は力なり。
地道な一歩一歩が
飛躍への原動力だ!
自らの目標に向かって
粘り強く進みゆこう!

◆名字の言

南アフリカではかつて、ラグビーは「白人のスポーツ」だった。「緑と黄金」色のジャージーと、「スプリングボクス」という代表の愛称は、黒人にとってアパルトヘイト(人種隔離政策)の象徴だった▼マンデラ大統領の誕生後、国内ではチームカラーと愛称の変更が叫ばれた。変更に反対したのはマンデラ大統領。“チームカラーと愛称は白人の誇り。それを否定することは新たな差別を生むことになる”――それが大統領の考えだった▼今回のW杯は、南アの優勝で幕を閉じた。代表チームで初の黒人主将となったシヤ・コリシ選手は語った。「さまざまな背景、人種が一つになって優勝できた。一つになれば目標を達成できると示せた」▼差別は人間の心に巣くうものであり、いつの時代にも存在する。だが、それは決して克服できないものではない。1995年から続く、ラグビー南ア代表の歩みは“人種や文化などの差異を、人類は必ず乗り越えることができる”という確かなメッセージである▼マンデラ大統領らの手によって、南ア代表は人類融和の象徴となった。種をまいても、芽が出るとは限らない。だが、まかなければ何も始まらない。実りの時が必ず来ると信じ、一人一人の心に平和の種をまいていきたい。(燦)

寸鉄

   幹部はまず自分が変わる
 事だ―恩師。さあ友の中
 へ。充実の励まし週間を
      ◇
 福島・いわきの友が奮闘。
 不屈の東北魂で底力を!
 勝って復旧・復興を前に
      ◇
 四国の日。魁光る正義の
 炎は赤々と!創立90年へ
 拡大の暁鐘を打て鳴らせ
      ◇
 人に与える喜びは自分に
 返ってくる―哲人。自他
 共の幸開く誉れの菩薩道
      ◇
 小中学生の約9割が近視
 と。スマホの使い過ぎに
 注意。親子で規則決めて

◆社説  地区の躍進こそ創価勝利の源泉  最前線に多彩なアイデア光る

 本紙では、地区の工夫や挑戦の一端を、「地区発! 私たちの取り組み」で紹介している。それぞれ大がかりな取り組みではないが、地道に続ける中で、着実に効果が表れている。
 例えば座談会の充実。内容に工夫を凝らし、毎回のように友人が参加している地区に共通するのは、「企画を早めに決めている」こと。友人やメンバーに、内容を伝えながら参加を呼び掛けている。
 また、一回一回の開催を大切にする姿勢がある。福岡のある地区は、終了後に必ず皆の写真を撮り、次回の案内状に印刷。楽しい雰囲気を伝えている。秋田では、毎回の内容を簡潔に記録し続けている地域がある。その記録を参考に、企画のマンネリ化の打破に挑んでいる。
 座談会での未来部員の活躍にもさまざまな心配りが光る。入場整理券などを親に託さず、必ず未来っ子本人に手渡すよう心掛けてきた北海道の地区では、司会や未来部コーナーなど、多くのメンバーが携わるようになっている。
 励まし運動も、さまざまな工夫がある。愛知のある地区では、リーダーが夫婦、または親子で訪問・激励に歩く。会話に花が咲き、家族で一緒に座談会に参加する家庭が増えてきたという。
 地域ならではの取り組みも。広大なエリアで活動する、高知のある地区は、会合の連絡を地域別に分担。また、欠席者への激励もきめ細かい。座談会に来られなかった方の所へ、モバイルSTBを持参して観賞会を開くなど、創価スクラムを広げている。
 転出入が多い静岡の地区では、長年住んでいるメンバーが、新しいメンバーと共に友好拡大に歩き、地元に早くなじめるよう、サポートしている。近隣と親しくなったことで、地域の清掃活動に参加するようになった友もいる。
 こうした一つ一つの取り組みを知るたびに、広布の最前線には、多彩なアイデアがあふれていると実感する。そのどれもが、地区部長、地区婦人部長の広布への情熱、一人一人の幸福勝利を願う真心から生まれたものだ。
 かつて池田先生は、三国志の英雄・諸葛孔明の事績を通し、「すべての地区に、広宣流布諸葛孔明がいる。孔明智慧と団結がある。だから強い。いろいろなことを話し合い、作戦を練って、勝ち戦の原因をつくるのだ」と、学会の発展の要因を語った。
 地区の課題と真剣に向き合い、皆で祈り、語り合う。その智慧と団結が、地区の躍進の源泉であり、創価の永遠の勝利の源泉だ。学会創立の日「11・18」へ、一人一人が自身の使命に奮い立ち、“わが地区発”の広布のドラマをつづろう。

◆きょうの発心 地域を舞台に報恩の日々を刻む 2019年11月6日

御文 今日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉る者の住処は山谷曠野皆寂光土なり此れを道場と云うなり(御義口伝、781ページ・編1627ページ)
通解 いま南無妙法蓮華経と唱える日蓮とその門下の住所は、それが山であれ、谷であれ、広野であれ、いずこも寂光土である。これを道場というのである。

 今、自分がいる所が成仏得道の舞台であると教えられています。
 入会し64年。多くの同志に支えられながら、広布の人生を歩んでくることができました。1985年(昭和60年)、分区長の任命を受ける際、池田先生から頂いた“明るく、朗らかに”との激励を生涯の原点に、後継の育成や太陽会の友への励ましなどに奔走する毎日です。
 中でも力を注いでいるのが、地域活動です。東京・練馬総区の地域部長として10年間、友の激励に走る中で、さまざまな苦労に立ち向かう同志の体験を伺い、“自身も郷土の繁栄に尽くしたい”との思いが強くなりました。
 9年前に町会の班長を務めるようになって以来、防災訓練、防犯パトロール等、行事の企画・運営に大誠実の心で携わっています。これも学会活動で得た薫陶のたまものであり、感謝が尽きません。
 4年前には町会の副会長、防災会長の任を受けました。これからも師の心を胸に、“わが地域こそ使命の舞台”との気概で、地域の発展と住民の幸福のために走り抜いてまいります。
 東京・練馬総区主事 岡野英雄


【先生のメッセージ】

◆〈世界広布の大道――小説「新・人間革命」に学ぶ〉 第13巻 基礎資料編 2019年11月6日
 物語の時期 1968年(昭和43年)9月~1969年2月26日

 

「金の橋」の章

 今回の「世界広布の大道 小説『新・人間革命』に学ぶ」は第13巻の「基礎資料編」。各章のあらすじ等を紹介する。次回の「名場面編」は13日付、「御書編」は20日付、「解説編」は27日付の予定。

「金の橋」の章
 1968年(昭和43年)、山本伸一は、大学会の結成など学生部の育成に総力をあげるなか、9月8日に開催された学生部総会で、中国問題について提言を行う。
 当時、中華人民共和国は、7億を超す人口を抱えながら国連への代表権もなく、国際的に孤立していた。日本もアメリカと共に敵視政策を取り、中ソの対立も深刻化していた。
 伸一は、地球民族主義の理念の上から、アジア、世界の平和を願い、「日中国交正常化提言」を発表した。松村謙三日中友好の先達は共感と賛同を寄せ、中国にも打電された。一方で脅迫電話が相次ぐなど、伸一は激しい非難と中傷にさらされる。
 70年(同45年)、訪中した松村は、周恩来総理と会見。総理は、伸一を熱烈歓迎するとの意向を語る。
 しかし、国交回復は政治次元の問題であることから、伸一は、公明党に、日中の橋渡しを託す。72年(同47年)9月、日中共同声明の調印式が行われ、国交正常化が実現する。
 74年(同49年)、伸一は、中国を訪問。第2次訪中では、周総理と会見し、日中友好の永遠の「金の橋」を断じて架けるとの決意を固める。

「北斗」の章
 1968年(昭和43年)9月、伸一は、北海道の旭川へ飛び、日本最北端の地・稚内へ向かった。
 伸一は13日、旭川で、永遠の繁栄と幸福のために広布の大誓願に生き抜くことを訴える。
 翌14日、稚内を初訪問し、総支部指導会に出席。参加者の中には、生活苦等と必死に戦いながら、利尻島の広布を担ってきた夫妻もいた。伸一の訪問は、そうした同志の敢闘をたたえるためでもあった。
 彼は、「稚内が日本最初の広宣流布を成し遂げてもらいたい」など、5項目の指針を示す。最北端の厳しい条件の中で戦う学会員が、偉大な広布の勝利の実証を示せば、全同志の希望になると期待を寄せる。
 終了後、彼は夜空を見上げ、“北海道は、この北斗七星のように、広布の永遠なる希望の指標に”と思う。
 9月25日、伸一は本部幹部会で、創価学会の縮図である座談会の充実を呼びかけ、自ら座談会の推進本部長となることを表明。
 10月には静岡の富士宮市や、東京の北区の座談会へ。その波動は全国に広がり、民衆蘇生の人間広場である「座談会革命」が進んでいく。

「光城」の章
 11月13日、伸一は奄美大島を訪れる。5年前の初訪問に比べて、奄美群島は1総支部から、1本部2総支部へと大発展していた。
 奄美では、この前年、ある村で、学会員への大々的な弾圧事件が起こる。村の有力者らが、躍進する公明党への危機感から、その支援団体である学会を敵視し、村をあげて学会員の排斥が始まる。迫害はエスカレートし、学会員は村八分にされ、御本尊の没収、解雇や雇用の拒否、学会撲滅を訴えるデモにまで発展する。
 報告を受けた伸一は、すぐに最高幹部を派遣し、また、励ましのハガキを送り、奄美の同志を勇気づける。彼は、相手を大きな境涯で包み込み、粘り強く対話を重ね、社会貢献の実証を示していこうと望む。
 奄美大島会館を訪れた伸一は、尊き同志たちの激闘を心からたたえる。そして、「奄美を日本の広宣流布の理想郷に」と呼びかけ、率先して、会館の近隣にも、友好の輪を広げるのであった。
 その後、奄美の同志は、伸一の指導通りに、社会貢献に取り組み、見事に広布の先駆けとなって、希望の「光城」を築いていく。

「楽土」の章
 1969年(昭和44年)元日付の「聖教新聞」に、伸一の詩「建設の譜」が発表される。彼は、今こそ、全同志が勇猛果敢に立ち上がり、万代にわたる広宣流布の堅固な基盤を完成させなければならないと強く決意していた。
 2月15日、伸一は、新装なった沖縄本部での勤行会に出席。各人が自らの宿命転換を図り、国土の宿命転換をも成し遂げようと訴える。
 この頃、沖縄では、米軍基地が多いことから、アメリカ人の入会者が増えていた。兵士や、その家族らで構成されるマーシー地区からは、アメリカ本土やハワイなどで幹部として活躍する世界広布の人材も、多く輩出されていく。 この訪問で伸一は、アメリカ人メンバーや、わが子を不慮の事故で亡くした婦人等の激励に全力を注ぐ。
 また、恩納村から乗った一行の船が流され、名護の同志と劇的な出会いを果たす。さらに、国頭から車に揺られ、沖縄本部に駆け付けたメンバーを抱きかかえるように励ます。
 3泊4日の沖縄指導であったが、一人一人に、楽土建設への不撓不屈の闘魂を燃え上がらせていった。

日中国交正常化提言
 第11回学生部総会(1968年9月8日)の席上、中国を巡って、次の3点を訴える提言を発表した。
 ①中国の存在を正式に承認し、国交を正常化すること。②国連における正当な地位を回復すること。③経済的・文化的な交流を推進すること。
 内容はすぐさま、中国にも発信され、周恩来総理の元にもたらされた。
 国内では、「百万の味方を得た」(日中友好に尽くした政治家の松村謙三氏)、「光りはあったのだ」(中国文学者の竹内好氏)などの声もあった一方、非難や中傷も相次いだ。

中国を初訪問
 今、日中国交の扉は開かれた。(中略)民衆は海だ。民衆交流の海原が開かれてこそ、あらゆる交流の船が行き交うことができる。次は、文化、教育の交流だ。人間交流だ。そして、永遠に崩れぬ日中友好の金の橋を築くのだ!
 (「金の橋」の章、97ページ)

山本伸一の激励行 北海道・奄美大島・沖縄へ
 「北海道は日本列島の王冠のような形をしていますが、稚内は、その北海道の王冠です。皆さんこそ、日本全国の広布の突破口を開く王者です」(「北斗」の章、153ページ)
 「最後の勝負は二十一世紀です。(中略)激しい試練にさらされた奄美こそ、広宣流布の先駆けとなって、希望の光城を築いていってください」(「光城」の章、254ページ)
 「大事なことは、社会を、環境を変えていくのは、最終的には、そこに住む人の一念であるということです。(中略)皆さんの存在こそが、沖縄の柱です」(「楽土」の章、340ページ)

 ※『新・人間革命』の本文は、聖教ワイド文庫の最新刷に基づいています。
 【挿絵】内田健一郎 【題字のイラスト】間瀬健治


【聖教ニュース】

◆総本部に総合案内センターがオープン  周辺案内と休憩スペースを提供
 原田会長、長谷川理事長、永石婦人部長らが出席し晴れやかに開館式

 

開館した総合案内センター。ゲートをイメージした建物正面を約20度傾け、JR信濃町駅から総本部に向かう方々に正対させることにより、「皆さまを迎え入れる」との設計コンセプトを表現している

 全国・全世界の尊き同志を迎える新たな宝城がオープン! 2020年の学会創立90周年の記念事業として、東京・信濃町の総本部に完成した「創価学会 総合案内センター」の開館式が5日、晴れやかに行われた。
 信濃町に「広宣流布大誓堂」が完成したのは2013年。以来、7万5000人を超えるSGI(創価学会インタナショナル)の友をはじめ、全国各地から多くの会員が総本部を訪れている。
 こうした状況を受けて、“会員の皆さまに使っていただける施設の充実を”と、計画・建設されたのが同センターである。JR信濃町駅広宣流布大誓堂側に出た右手に立ち、総本部への“玄関口”との位置づけで、ゲートをイメージしたデザインが施されている。
 建物は地上4階建て。1階にはデジタルサイネージ電子看板)や周辺施設の検索コーナーが設置され、来館者に総本部の情報などを伝える案内サービスが充実している。
 2階から4階には休憩スペースが設けられ、自然な色彩と優しい質感をテーマにした内装で、居心地の良い空間を創出。授乳室や多目的トイレ等を備え、子連れの方にも使いやすい低めのテーブルや椅子も用意し、建物全体もバリアフリー仕様となっている。
 池田先生はかつて、「『本当に来てよかった』と喜んでいただく。ほっとして、安心して、くつろいでいただく。それが学会の会館でなければならない」と語った。
 師が示された「会員第一の精神」を体現する大城――それが、今回、完成した総合案内センターなのだ。
 開館式では、原田会長、長谷川理事長、永石婦人部長をはじめとする各部のリーダー、地元の新宿総区の代表50人が参加し、テープカット。谷川主任副会長が、「訪れた皆さまに喜んでいただけるよう、役員一同が一致団結して同志をお迎えしよう」と述べた。
                               ◇ 
 開館時間は午前8時30分~午後7時。休館日はありません。
 なお、同センターは、より多くの皆さまにご利用いただけるよう、来館後の滞在は原則、「1時間以内」とさせていただきます。

◆今月SGI秋季研修会 65カ国・地域の280人が参加 2019年11月6日

 SGI秋季研修会が今月、世界65カ国・地域から280人が参加して盛大に行われる。
 求道の同志が五大州から世界広布の本陣に集い、「創立の月」を飾る研修会。各国代表者会議や世界聖教会館の開館記念勤行会をはじめ、関東各県での交流交歓会、教学研修会等を開催し、世界広布のさらなる飛躍を約し合う。
 本年の11月18日は、初代会長・牧口常三郎先生が死身弘法を貫き、殉教されてより75年。世界の平和と人類の幸福に命を捧げた先師と第2代会長・戸田城聖先生の心を継いだ、第3代会長・池田大作先生の間断なき闘争によって、地球を包む創価人間主義の連帯は192カ国・地域へと広がった。
 池田先生は小説『新・人間革命』の第21巻「SGI」の章で、「一閻浮提に広宣流布せん事一定なるべし」(御書816ページ)の御金言を引き、つづっている。
 「“この御本仏の御言葉を、虚妄にしてなるものか!”という弟子たちの必死の闘争があってこそ、広宣流布の大伸展はあるのだ。自身が主体者となって立ち上がるのだ。尊き使命を自覚するのだ」
 明2020年「前進・人材の年」は、学会創立90周年であり、池田先生の第3代会長就任60周年である。研修会は、この佳節に向かって弟子の決意を固め合う場となろう。


【特集記事・信仰体験など】

子どもの権利条約国連採択30周年 人類の宝を皆で支える社会へ 2019年11月6日
 “子どもの目線で”ではなく“子どもと共に”の仕組みを

 

 

子どもと高齢者に焦点を当て、新たな時代を希望を持って生きることを伝えている平和委員会の「平和の文化と希望」展(2016年9月、秋田・大仙市で)

 子どもの基本的人権を保障する「子どもの権利条約」が1989年11月20日に国連で採択されてから、本年で30周年。日本が94年に同条約を批准して25周年でもある。これを受けて本年4月、子どもの問題に取り組む国内外の団体が参加する「広げよう!子どもの権利条約キャンペーン」が発足。同条約の普及と社会環境の変革を目指して活動を広げている。同キャンペーンには、創価学会女性平和委員会(前多佳代委員長)も賛同団体として名を連ねている。ここでは、女性平和委員会の活動の模様と、「広げよう!子どもの権利条約キャンペーン」共同代表を務める荒牧重人氏へのインタビューを掲載す

女性平和委員会がキャンペーンに参加
 国連が1989年に採択した「子どもの権利条約」は、子どもは「保護の対象」だけでなく「権利の主体」であると定めた条約。
 全ての子どもは命が守られながら成長できることや、意見を表明できること、そして人種や性別等で差別を受けないことなどがうたわれており、さまざまな人権条約の中で最も多い196カ国・地域が締約している。
 創価学会女性平和委員会のメンバーは、子どもたちは皆、かけがえのない可能性を持った宝の存在であるとの信念で、子どもの権利を守る活動に参画してきた。
 子どもの権利条約の採択を受けて、91年に「What’re 子どもの人権展」を制作し、全国を巡回。日本の条約批准に先立って、草の根の意識啓発を広げてきたほか、2006年からは「平和の文化と子ども展」を通して子どもの尊厳を守り育む大切さを訴えてきた。
 条約採択25周年の14年には「子どもたちとつくる平和の文化フォーラム」を全国約130会場で開催。さらに、条約の啓発ビデオ「子どもたちとつくる未来」を制作し、普及に努めてきた。
 また、日本国内における同条約の実施状況を報告するNGOレポートの作成には、第1回から継続して参加している。
インタビュー 子どもの権利条約総合研究所 荒牧重人代表(山梨学院大学教授)
 「広げよう!子どもの権利条約キャンペーン」の共同代表を務める、山梨学院大学教授で子どもの権利条約総合研究所代表の荒牧重人氏に、話を聞いた。
                                ◇ 
 ――子どもの権利条約に込められた精神とは何でしょうか。

 1989年に採択された「子どもの権利条約」は、第1次、第2次世界大戦で戦場になったポーランドが冷戦時代に提起し、約10年かけて制定されました。子どもを二度と戦争や紛争の犠牲者にしてはならないという反省の上に生まれたのです。
 同条約の精神的な父とされるヤヌシュ・コルチャックは“子どもは「だんだん人間になる」のではなく、既に人間である”と語りました。子どもは「未来の担い手」といわれますが、それだけを強調してしまうと、「今」への視点が抜けがちになります。社会の宝であることも間違いありませんが、既に家庭や地域、社会の構成員でもあるわけです。
 もちろん、子どもにはしつけ・教育も必要です。大事なことは、大人から子どもという一方的な関係ではなく、子どもの意思や意向を踏まえた社会の仕組みを築いていく努力だと思います。「子どもと共に」と言いますが、大人が子どもの目線に立って同じように考えることは、現実には困難です。だからこそ、子どもを一個の人格として尊重することが大切なのです。
 日本には子どもを守る法律は多くありますが、子どもの権利を総合的に保障する基本法はありません。
 いじめや虐待、体罰、貧困の問題に対する法整備が進められていますが、状況はなかなか変わっていない。それは、子どもが専ら「守られる」ものになっており、子ども自身が権利を行使する、または行使を支援するための総合的な法律がないことにも一因があると思います。
 子育て支援は大きな課題ですが、支援が親だけでなく子どもにまで届かなければ、“産めよ増やせよ”の政策になってしまう可能性があります。「子育て支援」と「子どもの育ちに対する支援」をあわせて行うために、子どもの権利の視点が重要なのです。
  
 ――日常の中で、私たちはこの条約をどう実践していけるでしょうか。

 子どもの権利条約には四つの一般原則があります。
 まず、子どもの命が守られ、成長できるという「生命、生存、発達の権利」。そして、子どもに関わることを決めるときには、子どもにとって最もいいことは何かを第一義的に考慮するという「最善の利益」、自由に意思を表明する「意見の尊重」、人種や性別などで差別を受けないとする「差別の禁止」です。
 皆が常に子どものことを考えるのは不可能でしょうが、条約の内容を「知る」ことと「理解する」努力はできると思います。その上で例えば「意見の尊重」について言えば、かつてある子どもに、“意見といっても、聴いてくれる人がいなければ意見にならない”と言われたことがあります。私たちが子どもたちの意思や意向を聴く姿勢を示すことも、条約の実践だと言えるでしょう。
 また、子どもが十分に意見を言えない時に代弁してくれる仕組みを社会としてどこまで設けていけるかも重要な課題です。現状は、いじめや体罰を受けた子どもの多くが、SOSを出せていません。「助けて」と声を上げられるようにすること。と同時に、それを効果的に受け止め、救済に結び付けていく社会の仕組みが必要です。
 地域によっては児童相談所が既に手いっぱいで、丁寧な対応ができない場合もあります。ゆえに、子どもからSOSを受けたら意思や意向を聴き、解決策を子どもと共に考える仕組みを、国、都道府県、地方自治体の各レベルで作っていくべきだと思っています。
  
 ――本年6月、日本では親などによる“しつけ”と称する体罰の禁止が法制化されました。

 2016年の児童福祉法の改正をはじめ、政府もさまざまな取り組みをしており、子どもを取り巻く環境にも一定の進展がみられますが、状況を変えるには至っていません。そうした状況を少しでも改善していきたいとの思いで立ち上げたのが、「広げよう!子どもの権利条約キャンペーン」です。同キャンペーンは、政策提言と、ネットワークづくり、条約の普及を柱にしています。中でも普及がメインです。まず知ることから始まるからです。
 その意味で、女性平和委員会の皆さんが子どもの権利条約の啓発に取り組まれていることに、心から敬意を表したいと思います。
 子どもの権利条約は第42条で、“この条約の趣旨を子どもと大人の両方に周知しなさい”と規定しています。子どもの権利条約の精神や規定を十分に知らなければ、子どもの権利条約を実現したことにはならないとうたっているのです。
 実は、子どもの権利条約の制定プロセスそのものには子どもは参加していません。子どもに関わるNGOなどが子どもの声を届けてはいますが、策定したのは大人です。だからこそ女性平和委員会の皆さんの活動は、この条約を子どもと共に、いわば“実質的”にしていく取り組みであり、その貢献は大きいのです。


◆信仰体験 生きるよろこび クローン病と闘う製薬会社の営業マン 不動の信念 堂々たる人格で

プロローグ
 【名古屋市東区】2003年(平成15年)1月、中学3年の小林寿さん(32)=区男子部書記長=宛てに、創価高校から受験の合否を知らせる封筒が届いた。中身をそっと取り出すと、「合格」と。「やったー!」。父・秀さん(71)=副圏長=と母・和子さん(62)=支部副婦人部長=も声を上げて喜んでくれた。
 故郷の佐賀から上京することに不安はあったものの、日に日に期待が膨らんでいく。
 だが、3月の中頃に突然、腹部の激痛に襲われる。食あたりと思ったが、鈍い痛みは治まらない。病院を幾つも回った末、「クローン病」と診断された。創価高校の栄光寮に入寮する直前、4月1日のことだった。

食べられない
 炎症性腸疾患(IBD)のクローン病は、厚生労働省の指定難病。口から肛門までの全消化器官のどこにでも、慢性の炎症や潰瘍が発生する。
 “ナンビョウって何? 手術すれば治るんじゃないの”と思っていた。だが寛解と再燃を繰り返すため「一生、治らない」と医師から告げられた。頭の中が真っ白になった。
 自宅に戻っても、何も手につかない。“学園を諦めるしかないのか”。「食事療法」として、脂質の多い食事を避けるように言われた。また、過度のストレスも良くないという。やりきれなかった。
 地域のドクター部員が駆け付けてくれた。「油が少ない健康的な食事を心掛ければ、他の病気の予防にもなる」「絶対、病に心が負けちゃいけない。病になった意味が分かる時が来るよ」
 家族も背中を押してくれ、創価高校へ。教職員も配慮をしてくれた。寮の食堂では、鶏のささみを使うなど、専用メニューを用意。また、養護教諭の望月理さん(故人)が何かと気遣ってくれた。
 体調を崩すと、寮の先輩が夜通し看病してくれた。本当の兄弟のようだった。
 “僕は一人だと思っていたけど、一人じゃない”
 多くの仲間に支えられ、治療も功を奏し、症状は悪化することなく高校を卒業。創価大学に進学する。
 大学1年の11月。病との向き合い方を変えてくれる先輩との出会いがあった。
 「その頃、日常生活は問題なく送っていたけど、そのことにだんだんと甘えてしまうようになって。大学の講義にも身が入らず、成績は良くはなかった」
 そんな小林さんに先輩は「厳しいことを言うけど、小林君は、病気を言い訳にしているんじゃないのか」と。
 ハッとした。「悔しかったけど、その通りだった。当然、無理はしちゃいけない。でも、“できること”までセーブしていた」
 以来、講義を一番前で受講するように。教授にも積極的に質問した。課題にも真剣に取り組んだ。すると、2年から4年までの3年間、成績優秀者に。「いつも陰に陽に支えてくれる両親に、親孝行ができた」
 学会活動にも懸命に励み、同じ病で悩む友に仏法対話を続けた。そうした中、4年次にはクローン病寛解を勝ち取る。
 真っ先に行ったのはラーメン店。共に泣き、共に笑った仲間たちと一緒に麺をすすり、“勝利”をかみ締めた。「少ししか食べられなかった。でも“格別な味”だった」

富士と待つ
 “病で苦しんだ分、誰かの役に立ちたい”と、創大の大学院修了後は製薬業界に飛び込み、MR(医薬情報担当者)になった。
 医師が求める医薬品の情報や研究データなどを提供するだけではなく、臨床現場の情報を集めるなど、高い専門性が求められる仕事。膨大な薬品の知識を身につけるとともに、話す技術を磨いた。社内で模範的な成績を残すこともできた。
 だが、16年1月、腹部に激痛が走った。“まさか”と思った。忘れることができない“あの痛み”だった。
 「クローン病の再燃です」。医師からそう告げられた。手術は3カ月後になった。
 “頑張ると、いつもこうだ。僕は何のために生きているのか”
 不安で押しつぶされそうになる。御本尊の前に座っても、ボーッとするだけ。ふと1枚の写真を手に取った。
 高校1年の7月、創立者・池田先生が写した、白雪の富士。“小林君が万が一、体調を崩して学園を辞めるようなことがあったら渡してほしい”との言付けがあったという。裏には、池田先生の字で「君の帰りを 富士と待つ!」と。
 大学に進み、社会人になり、その間、何度も見返した。そのたび心に師の励ましが響いた。
 「富士の頂上は、烈風が吹きつけ、豪雪が襲う。しかし、富士は悠然として動じない。富士のごとき不動の『信念の人』、富士のごとき堂々たる『人格の人』になっていただきたい」
 “あの時、誓ったじゃないか。勝利を待っていてくださる池田先生のために、何があっても負けないと!”
 地域の同志も祈り、励ましてくれた。合唱団の担当者として関わってきた未来部のメンバーも手紙を届けてくれた。
 「みんなでおうえんしてます。すごくまってます。笑顔でもどってきてください」
 胸が熱くなる。手術の成功を猛然と祈った。3カ月後、小腸を約50センチ切除した。幸い、炎症は1カ所だけだった。“守られた”と思った。
 退院から1カ月後、職場復帰を果たした。

エピローグ
 現在、毎食時の飲み薬と、2週間に1度の注射を続けている。多少の食事制限もある。
 仕事で、医師と面会していた時のこと。小林さんは、患者だけでなく、一緒に暮らす人、一緒に仕事をする人にまで思いを馳せながら、薬の使用法や効果を語った。
 聞き終えた医師は「小林さん自身が病と闘っているからか、言葉に優しさと実感がありますね。ぜひ薬を使いたい」と。
 先月、優秀な営業成績を収め、400人のMRの中から20人に選ばれ表彰された。
 小林さんはその勝利を、支えてくれている人たちにささげたいと思っている。
 「今も治療は続いています。だから常に、“限界”なのか、“妥協”なのか、一瞬一瞬を勝負しています。そのことが、今まで支えてくださった方たちへの感謝になり、同じ悩みを持つ人の勇気になると信じているから」